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「自分」という思い込み

禅ノート

 

 

前日の夜に精神的にかなりハードな事があり、「自分、意識」等のキーワードでネット検索をしていたときに偶然濁川さんという方の文章を見つけたのですがとても衝撃的でした。どんなに素晴しい文章でも受け取る側がそれを受け取ることができる準備ができていないと、いわゆる馬の耳に念仏になってしまします。ちょうど私がこの内容を受け取ることができる準備ができていたタイミングでもあったのだと思います。

 

天気が良いと気分が良くなり、雨が振ってきたら憂鬱な気持ちになり、道で犬を見て可愛いと思ったり、有名人の自伝を読んで憧れたり、道でいい車を見たら欲しくなり、自分の「心」と思っているものは実は偶然の出来事の寄せ集めでできています。

胃からは胃液が分泌され甲状腺からホルモンが分泌されるのと同じように、自分の「心」というのは脳から分泌される分泌物の1つに過ぎないということです。

多くの人は自分の「心」で人生の進むべき道を決めるのは当然と思っていますが、実はこれは風に吹かれて揺れる池の葉のようなものなのです。だから苦しくなってしまうのです。

 

自分の「心」をもう1つ上のレベルの視点から観察してみる、これが座禅というものらしいです。そしてその上のレベルの視点で人生の道を考える、というのが禅らしいです。

念のため、私は怪しい宗教家などではありません。 

 

 

(以下、 濁川さんという方のサイトからの引用です)

  

身体と、その身体の内側(主観)で起こっている欲求や感情、考えや気分といった心理的な現象を、わたしたちは「自分」だと思って生活しています。思いが活発に起こっていることが生きている証拠であり、思いを実現することが生き甲斐、そして、頭に浮かんだ思いを実現する場所が社会(世間)であり、自分の人生だということになっているのでしょう。

 

 わたしたちが、生きる動機、目標、意義、価値としているところの本能や欲望、野心、これを自分だと誤解して、執着することを「自我への執着」と言います。この「自我への執着」が、心の悩み、人生問題をとめどなく再生産している根本原因なのだと、仏教は教えています。

 

 ですから、“思いは本当の自分ではない”と知る“無我”の体験、これが仏教の伝えようとしているすべてだと言っていいと思いますが、この“無我”を知る体験を蓮如は「信をとる」と言っている訳です。

 

 わたしは、仏教の教えは実に簡単だと思っています。すなわち、心の悩みをつくっているのは、対象に対する“執着”で、その執着を捨てれば、心静かに生活できますよ、と。たった、これだけのことを言っているにすぎないのです。

 

 仏教は極めて科学的だと感じます。すなわち、【問題】には必ず【原因】があると考え、原因をつきとめ、【対策】を施せば、問題は【解決】する、と。その解決策が多く(または、すべて)のケースで有効であると証明されれば、これは立派な科学ではありませんか。神頼み(仏教だから、仏頼み?)なんて非科学的なことはしないのです。苦をつくっているのは自分(自業自得)だからです。

 

 仏教とは、執着(我執)を落とす「技術」(ノウハウ)であるというのが、わたしの仏教理解の基本です。よって、神秘的なものなどなにもありません。

 

 【問題】とは悩みであり、【原因】は執着、執着をなくす【対策】を施せば、悩みのない心静かな生活、すなわち涅槃に入り、すべての問題が【解決】する。この治療方法(執着を落とす技術)は、どの患者にも100%再現可能な、有効な科学的な方法であると思うが、いかがでしょうか。

 

 仏教とはなにか、これがわたしの理解です。宗教という言葉のもつ、なにやら怪しげな気配は一切ありません。「我執」という死に至る“癌”を治療する科学的な医療技術くらいに思ってもらうとよいのでしょう。

 

 わたしたちは、物と心に執着しますが、物への執着は比較的、落ちやすいものです。しかし、経験的にも、心の現象に対する執着(我執)は、なかなか絶ちがたいものです。真宗では、この我執を「自力の心」と呼んで、この我執との闘いに勝利することを仏道の中心に据えています。

 

 では、人生問題(心の悩み)をつくっている心の癌「我執」とは、どういうものなのだろうか。仏教は、この我執を断つことで、悩みのない平和な生活、すなわち涅槃(執着のない心境世界)に入ると教えています。

  

 心(しん)とは、それこそ数え切れない要因が集まって、今の心理状態を生起してくるわけですが、ほんとうは、どの要因にも、まったく必然性がないのです。

 

 ところが、この偶然のよせ集めの心理状態に対し、意(末那)は、これこそオレだ、オレだと思い固めています。そして、この意(末那)の管理のもとに、私の、はなはだ主観的なる分別作用が働き、それによって行動しているのが、現在の私です。

 

 とすると、この今の私というのは、いかにも、はっきり決まった私であるように思っているわけですが、その根本はといえば、まったくの偶然のよせ集めでしかなく、つまり根本について、何が、何故、如何にしてなど、まったく明らかでないので、仏教はこれを無明(あきらかでない)といいます。

 

 つまり、われわれは、いつも、偶然のよせ集めから生起した能力を「われ」と思い、この「われ」の物足りようの思いで一切を片付ける心識(あたま)こそ、われの主人公だと思いがちですが、じつは、心識(あたま)は、ほんとうの自己のいのちの主人公ではありえないのだ、ということです。

 

 われわれの心識(あたま)からは、何の理由がわかりませんが、いつもむらむら思いが立ち昇ってきます。そして、その思いは、まるで映画かテレビのようにまざまざと一つの世界を展開してみせるのであって、われわれは、いかにもこれが現実であるかのように思えてきてしまうわけです。

 

 しかし、じつは、もともと心識(あたま)は、われわれ生死する肉体的生命の一器官なのであり、そして思いとは、いわば、心識(あたま)から沁み出してくる分泌物です。

 

 心識(あたま)の分泌物たる思いをもって、生命そのものの指導原理とすることは、大いなる転倒、倒錯であるとしなければならないでしょう。

 

 人生の根本姿勢は、生死する生命の真実から決定されてこなければならないのであって、けっして、心識(あたま)の分泌物たる思いによって決定されてはならないものです。

 

 実は、さとりには、二つの意味がありました。たびたび触れていますように、一つは、人生問題をつくっていた心の悩みの原因は我執にあったという事実を知るということです。我執を“離れる”ことによって我執を“知る”という、これが仏教の知り方の特徴です。

 

 もう一つは、これがあるために仏教は宗教だと言われるのだと思いますが、今まで“自分”だと思っていた自我は実在せず、むしろ、自我を虚妄だと「自覚する主体」を発見するということです。

 

 この自覚する主体、心を離れて心を見る仏眼を初めて知るのです。これを「本当の自己」と呼んだり、臨済宗では「一無位の真人」、真宗では「如来」と言ったりします。人間の心を見渡し、虚妄と自覚する主体、この目に見えない「如来」に出会うという体験が、信仰を成り立たせているものです。

 

 観念でこしらえた神仏を信じることで人生の悩みから気持ちをそらせ、気持ちを楽にさせるのが宗教だ、くらいに思っている人は多いと思います。また、お経に描かれている浄土のことも、お伽噺のように思っている人がほとんどでしょうが、無我を知れば、すべて“事実”だと知るでしょう。

 

 では、自我は実在しないと、どうやって知るのでしょうか。こればかりは、本を読んで、あぁ、そうか、とばかりにはいかないでしょう。“頭”の妄想を落とすのに“頭”を使ってするわけにはいきません。妄想に妄想を加えるだけでしょう。頭を使わない、頭を捨てる、頭を離れる工夫が必要です。

 

 頭という病根を切除する外科手術の方法を、仏教は用意していますが、その前に、我執が起きる頭の仕組みをもう一度、復習します。

 

◆我執が起きる頭の仕組み 

数え切れない要因が集まって心理状態が生起する。

どの要因にも、まったく必然性がない。

必然性のない心理状態を、オレだ、オレだと思い固める。

肉体の一器官の心理状態にすぎないものを“主人公”にすえる。

 この主人公の物足りようの思いを“絶対”とする。

 頭の思いを指導原理とする倒錯した人生が始まる。

  

 思いを、頭の中から沁み出してくる分泌物と見渡し、思いの影響を受けないようになるには、一度、思いを離れる(離念)体験をする必要があります。その方法として仏教は、瞑想を薦めています。瞑想とは「心を観察」することです。

 

 心を観察するとは、頭(心)につぎつぎと湧いてくる思念、感情といった思いをただ、「自分の心とは思わずに」窓から景色を眺めるように、空に浮かぶ雲でも眺めるように眺めて、なにも手出ししない(すなわち、思いに取り憑いて行動を起こさない)ことです。いいとも、悪いとも判定せずに、他人ごとのように、ただ眺めている。心に湧いては消え、消えては湧く思いを、湧くまま、消えるままに放っておくのです。これにはちょっと訓練が必要です。

 

 総別、人にはおとるまじき、と思う心あり。此の心にて、世間には、物も仕習うなり。仏法には、無我にて候ううえは、人に負けて信をとるべきなり。理をまげて情をおるこそ、仏の御慈悲なり。(真宗聖典「蓮如上人御一代記聞書」)  救われない凡夫としての自覚に徹すること、すなわち、「地獄に堕ちるは自分、救うは仏」とばかり、如来に一切をお任せせよと言われても、一切の努力を止めることは“至難”のことです。「総別、人にはおとるまじき、と思う」て、世間を生きている人間にとり、努力を止めることは、「人に負けて」人生から転落することを意味します。負けまい、負けまいとして生きている人間に、努力はいらない、仏が救うと言われても、努力を止めることは、死ぬに等しい恐怖なのです。

 

 如来を頼る心(他力=無我=無執着)になりきれないのは、自分の力(自力=エゴ=努力)でなんとかなると思っているからです。自我にとって「人に負ける」とは、努力をしないことを意味し、努力しない、すなわち執着しないということは死を意味します。禅宗に「大死一番、絶後蘇息」という言葉がありますが、真宗において「負ける」とは、自力無効、自我の死を意味します。

 

 ストレスに慣れた現代人はなにより、人生に悩みがあるのは当然だと思っているようですし、ストレスを逆にエネルギーに変えて、などと訳のわからない世迷い言を言いながら、それを克服していくのが自分の甲斐性くらいに思って、終わりのないストレス生活(地獄道)に落ちていくのです。

 

 考えてみれば、現代人は、科学的な知性と技術、物の豊かさを誇ってはいても、所詮は、欲望にこき使われ、野心に追い立てられ、緊張と焦燥、不安と恐怖に落ち込み、ストレスを発散するために、さらに狂ったように物を消費し、セックスを享楽する、放恣な欲望生活(畜生道)に落ちているのです。

 

 仏教を学んでいる人ですら、お経に描かれた極楽浄土の世界をお伽噺くらいに思っているのですから、仏教に縁のない現代人に、心配や不安や恐怖のない、一切のストレスから解放された、自由でのびのびした安楽な生活(極楽浄土)があるなんて、とても信じられないことでしょう。

 

思いの通りにならないことを「苦」といいます。

その苦の原因は、思いに対する「執着」です。

思いに執着するのは、「思いは自分」という誤解があるからです。

その誤解が解けることを「さとり」といいます。

さとれば、思いに対する執着がなくなります。

執着がなくなれば、苦がなくなります。

苦がなくなると、心配・不安・恐怖がなくなります。

心配・不安・恐怖のない生活を「極楽」といいます。

 


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筆者プロフィール

傳田 英治(Denda Eiji)、珍しい名字ですが日本人です。

MY MISSION: 傳田塾

性別:男性(42)

血液型:A型

趣味:坐禅、読書、登山

出身地:日本(長野県)

出没地:日本、中国、インド

出身校:慶應義塾大学院(理工学研究科)

経歴:日本で人生に行き詰まり、中国へ

傳田貿易有限公司(中国現地法人)代表

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